50音ノック『あ』

twst/ネハとヴィル
あめ【雨】─雨音に馴染む悲しみ
熱砂の国では、雨は恵みの象徴だ。幼い頃に読んだ御伽噺に出てくる優しい神は決まって水の女神だったし、正直者の主人公はオアシスで水の女神の恩恵を受けて生命の尊さに感謝する。それとは反対に、悪い神はいつも太陽の神だった。大地を干上がらせて人々を不幸にする陽の光。芽吹く全ては根こそぎ朽ち果てる。心すらも錆ついてしまいそうな乾いた砂漠に生命をもたらす雨は人を豊かにする。枯れた心をその透明な器で温かく抱擁するように包み込み潤す。雨に悲しみの意味があると知ったのは熱砂の国の外に出てからだった。
ネハ・ヘルメスはカリム・アルアジームの召使いとしてナイトレイブンカレッジにやってきた女の子だ。ナイトレイブンカレッジの生徒ではないが特別に学園内を歩き回ることを許可されている。無論、正式に入学を許可された者でなければ生徒として扱うことは出来ないため授業に参加することはない。しかしながら彼女も普通ならば学校に通い、勉学に励むべき年齢であることを考慮して図書室は自由に利用して良いとの許可をもらっていたのだ。だから仕事を終えて少し時間が空く時に、ネハはよく図書室に来ていた。今日手に取ったのは異国の童話集だった。昨日は苦手な魔法薬学に頭を悩ませて疲れてしまったため、今日は文学を読んで一休みしようという算段らしい。雪の中を駆け回る可愛らしい子供達の童話、勇気に溢れた本好きの町娘と醜い野獣の恋物語。どれも新鮮で読んでいるだけで笑顔になれた。全部覚えてホリデーで実家に帰った時に幼い妹や弟に話してあげよう。自分のユニーク魔法を使えばきっと喜んでくれるはずだ。そう思いながらネハは次のページを捲ろうとするが手を止めた。ある一文が目に止まってその先に進めなくなってしまったのだ。
「あら。随分懐かしい本があるものね」
突然背後から聞こえてきた声にネハは反射的に身構えた。アジーム家で特別な訓練を受けてきた身体は他者の気配を察知すると自然と身構えるようになってしまっていた。
「そんなに怯えないでちょうだい。驚かせるつもりは無かったのよ?」
そう言って少しバツが悪そうに微笑んだのは今をときめく人気若手俳優、ヴィル・シェーンハイトだった。
「は、はわ…失礼いたしました…」
ナイフのように研ぎ澄まされた美しさに圧倒されてネハはストンと立ち上がった身体をまた椅子に預けた。ナイトレイブンカレッジには本当に様々な生徒が居る。名門ということもあってか、それはどこぞの御曹司であったり一国の王子であったり様々だ。だから人気若手俳優が居てもなんら不思議では無いのだが、年頃の女の子としては充分、緊張する理由になり得るのだろう。そんなネハの態度に気を良くしたのか、ヴィルはにこりと愛想良く微笑んでネハの読んでいた本を覗き込んだ。
「懐かしいわね、その童話集。アタシも小さい頃によく父に読んでもらったわ」
そう言って懐かしげに挿絵を眺めるヴィルの表情は、普段の他人を突き放すような孤高の美しさの中に僅かに子どもらしさが垣間見えて可愛らしかった。
「そうなのですね…」
微笑ましいヴィルの家族の話を聞いているとネハも心がほのかに温かくなり、自然と表情が柔らかくなった。
「それで?続きは読まないの?」
「少し気になる表現がありまして…」
ページの端に手を掛けるヴィルの手が止まり、ネハの視線の先を追いかけた。健気な町娘が待ち合わせ場所に来ない恋人をずっと待っていたら、雨に降られて悲しい思いをしながら泣いて帰ることになったという童話にしては切ない話だった。
「私の心にまるで雨が降っているよう、というのは一体どういう意味でしょう?」
ネハが指差した一文はヴィルにとってはなんでもない表現だ。
「雨が降るのは私の心が悲しいから…という意味よ。よくある文脈ね」
首元に掛かる金髪を煩わしそうに払い除けながらヴィルがそう言うと、ネハは開いた本から目を離して、長い三つ編みを揺らしながら不思議そうに小首を傾げた。
「心が悲しいから雨が降るのですか…?」
熱砂の国では聞き覚えのない言い回しなのだろう。なにしろ熱砂の国において雨とは恵みの象徴であり、悲しみとはかけ離れたものだ。以前ジャミルからネハの出身が熱砂の国であると聞いていたヴィルはどう説明したものかと雨の降りしきる窓に目線を向けた。ちょうど雨粒が窓ガラスを伝って流れてゆくのを見つけてネハに手招きをした。ネハが図書室の椅子から立ち上がってヴィルの傍に寄ると、ヴィルは流れてゆく雨粒を指差す。窓ガラスに叩きつけられた雨粒がはらはらと川を辿るように流れ落ち、窓枠に消えていった。
「雨が降るとこうして水滴が地面に滴り落ちるでしょ?これが頬を伝う涙のようだから悲しいという意味を持つようになったのね」
「なるほど…」
ネハは感心したようにずっと窓枠の水滴を見つめていた。本に書かれた一文と見比べながらまるで玩具でも与えられた子供のように嬉しそうに微笑む姿は教えた側としても嬉しいことだ。ヴィルはその横顔を見ながらエペルもこれだけ素直に教えたことを喜んでくれればね、と小さなため息をついた。エペルの場合は可愛さ余って憎さ百倍というやつなのだきっと。そう結論づけ、ヴィルは口を開いた。
「読書を邪魔して悪かったわね」
「いえ!あの、教えていただきありがとうございました…」
ぺこりと頭を下げて嬉しそうに本を抱えるネハの頭にヴィルが手を伸ばして撫でると、ネハは驚いたように僅かに瞳を見開いた。
「また分からないことがあったら聞いてもいいわよ」
そう言って立ち去るヴィルの後ろ姿を眺めながらネハはヴィルに撫でられた頭を不思議そうに自分で触れて頬を赤らめた。自分にも兄が居たらきっとこんな感じなのだろうか。

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